【詳細ストーリー】青山学院原晋監督の経歴と成功に至るまでの挫折

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青山学院大学原晋監督が営業マンだったというのは本人も言われている有名な話です。
営業マン→監督転身→箱根駅伝優勝・・という大出世イメージが一般的かと思いますが、彼はかなりの苦労人です。

経歴、今日の成功に至るまでのストーリーをまとめあげてみました。
原監督の人生から、私たち誰もが、成功のチャンスを持っていることが実感できますし、決して特別な人だけが成功を掴むわけではないということが実感できます。

原晋氏の生き様からは、駅伝ファンならずとも勇気が貰えます。

原晋監督の主な経歴

以下、原晋監督の主な経歴です。

・1967年(昭和42年):広島県三原市糸崎町松東に生まれる
・三原市立糸崎小学校
・三原市立第一中学校(選手)
・広島県立世羅高等学校(選手)
・中京大学(選手)
・中国電力(選手→営業マン)
・青山学院大学監督

魔法をかける アオガク「箱根駅伝」制覇までの4000日より引用

父は教員、母は保険のセールスレディ、祖母が文房具屋を営むという家庭に生まれます。男ばかり3人兄弟の末っ子、真ん中の兄はワルガキという環境で、幼少時はガキ大将であったようです。

中国駅伝(都道府県対抗男子駅伝の前身)のコース付近に家があり、駅伝レースを見られる環境であったこと、地域柄世羅高校への憧れが強かったことから、小学生時代から走ることへの関心が強い少年でした。小学生時代の作文では「世羅高校に行って、高校駅伝で優勝したいです。」と書いています。

中学生になると本格的に陸上競技に取り組みます。3年時に県内5番手くらいの選手であったようです。スカウトはないものの、世羅高校出身の顧問の先生を通じて”自ら売り込んで”名門世羅高校へ進みます。

世羅高校時代は、名門校ならでは苦労を乗り越えて、3年時に都大路で準優勝という輝かしい実績を残します。

監督の推薦で中京大学へ進むと、普通の大学生のように遊んでしまう日々を過ごしますが、これではいけないと奮起した3年時には、日本インカレ5000m3位に入賞しています。また、全日本大学駅伝にも出場しています。

その後、中国電力陸上部の創成期メンバーとして入社します。
中国駅伝、ニューイヤー駅伝への出場を果たしますが、わずか5年で引退を余儀なくされます。

選手引退後は、営業マンとして10年間中国電力に勤務。苦労を重ねた末に営業成績も残しています。その後、強化を開始した青山学院大学監督に就任、チームを育てあげ、現在に至ります。

選手時代の栄光と挫折

都大路で準優勝

世羅高校時代は、1年、2年と先輩達から伝統のイビリ?を受けながらも厳しい寮生活を乗り越えて鍛錬に励みます。

3年生では主将を務めます。
同期生は1、2年生に押され気味で、監督からは駄馬軍団と揶揄されますが、そこから奮起します。
最後の都大路では、主要区間4区(8.0875キロ)を担当し、区間2位、9位から3位に押し上げる好走を見せます。最終的にチームは2位に食い込みました。

実業団を5年でクビ

中京大学を卒業後、中国電力へ選手として入社します。
陸上部第一期の選手で、愛好家も混じるような初期の初期のチームでした。
そのため、会社の目標も低く、中国駅伝出場が命題でした。

2年目ではその中国駅伝に出場(19位)し、一応の命題は果たします。
4年目には主将としてニューイヤー駅伝にも出場(13位)します。

原晋選手としては、満足とは言わないものの、会社との約束は果たしているつもりでありました。
そのうえで、飲んだり、遊んだりしながら競技を続けていました

しかし、中国電力が新たな監督として坂口泰監督(世羅高校→早稲田大学→エスビー食品)を招聘します。中電を日本有数のチームに育て上げた名将ですね。
陸上界のど真ん中を歩んできた坂口監督にとっては、原選手はプロ意識が足らず、いかにも中途半端な選手に写ります。

衝突することも多く、ついには5年目に選手をクビになってしまいました。

中国電力での10年間の営業マン生活

選手をクビになり社業に回される

選手をクビになった原氏は、電力の営業に回されます。

普通の社員が一通りの仕事を覚えて、独り立ちしている中、5年目にして高卒新人と同じ地点からのスタートとなってしまいます。

選手時代は本社に所属がありましたが、社業に回った当初は東広島営業所へ配属されました。
この時に本社から営業所へ格下げ異動という時点で屈辱感を感じます。

普通の社員として一からやり直すのはつらく、仕事ができない間は周囲からの視線にも苦しめられます。ストレスから毎日飲み歩き体重は60キロ→93キロに増加したようです。

この時が、一番つらい時代であったようです。

ただ、こういう時でも面倒見のいい上司、同僚が酒に付き合ってくれたり、美穂夫人との出会いもあり、完全に腐ってしまうことはありませんでした。

原監督は、かなり覚悟のある選手以外は実業団入りを止めることもあるようですが、選手として上手くいかなかった時に、自分と同じ地獄を見て欲しくないという親心なのかも知れません。

会社組織の一番下まで落ちたところでチャンスを掴む

東広島営業所に配属されてから3年後、可部サービスセンターに異動を命じられます。
ここは組織としては最も下です。

当時の中国電力は上部組織から順に、
・本社
・支社
・営業所
・サービスセンター
となっており、サービスセンターは末端になります。
スポーツ選手の所属は本社になるので、一番上から入って、一番下へ降格してしまったことになります。この時点で入社8年目。30歳になる歳ですね。これは絶望感に襲われます。

しかし、ここでチャンスを掴みます。

上司から「提案営業」に取り組むことを打診されます。
1990年代後半当時、地域を跨いで電力会社同士で競争する体制に変わった時代でした。
いまでは個人でも新電力で契約している人も多いですが、まずは業務用から競争はスタートしたのです。いわゆる「電力の自由化」です。

原晋氏は電力の提案営業で活路を見出し、結果として全社でもトップクラスの営業成績を記録します。
当時、始まったばかりの仕事であり、中国電力にとっても顧客にとっても手探りの業務。経験値勝負にならないというところにも勝機があったのでしょう。

そうこうしているうちに、今度は「エコアイス」という省エネ空調システムが登場し、営業マン公募を経て、徳山営業所へ異動となります。
ここで手腕を発揮し、営業部門長を受賞する活躍をします。
表彰を受けるまでの活躍が実り、ついには本店への異動をつかみ取ります。
2000年、入社11年目、33歳の時ですね。

中国電力の本店復帰後にカリスマ社長と出会う

本店へ異動後、「カリスマ社長」吉屋文雄氏と出会うことになります。

本店でのミッションは、中国電力が立ち上げた新会社「ハウスプラス」の立ち上げでした。

ハウスプラス社は、住宅性能評価制度の普及のための会社、住宅のエコ性能証明を手助けするような会社と理解します。
社長を入れて、営業3人、技術2人の合計5人での船出となりました。

社長である吉屋氏は中電のエース社員で、原晋氏へ大きな影響を与えることとなります。

吉屋氏は明瞭なプレゼンで周りを巻き込んでいくタイプ。
A4に纏められて、目標、それに至るロードマップを提示して、チームメンバーへ方向付けを行います。
明確な計画に乗ってチームの動きにはドライブがかかり、3年で成果を上げることに成功します。

突然の青学駅伝監督就任の話

仕事で実績を上げていた2003年頃、世羅高校時代の後輩でビジネスでも付き合いのあった瀬戸昇氏(当時RCC中国放送勤務)から原さん、青学陸上部が監督を探しています。興味ありませんかと電話が入ります。

瀬戸氏は青学陸上部OBであり、監督は元々瀬戸氏へ打診のあった話でした。
ただ、瀬戸氏は大学側の条件を呑めず、「他にいい人いないか?」という問いに、原晋氏の名前を出したのでした。
酒飲み話の中で、陸上への思いが口をつくこともあり、それを覚えてくれていたようでした。

監督就任の話に、原晋氏の情熱はふつふつと沸き上がります。
ただ、仕事が安定して、新居のローンも残っている中で、家族は誰一人賛成しませんでした。
最後には、「やらずに一生後悔し、愚痴を聞かされるくらいならやったらいいじゃないか」という美穂夫人の言葉を貰って決断します。

当初は、中国電力から出向の形で、青学へ行くことも掛け合ったようですが、それは叶わず退職して東京へ向かうこととなりました。
省略しますが、この時大学側にプレゼンをして、合格を貰ったことも添えておきます。プレゼン時点でも吉屋流プレゼンノウハウが存分に生きました。

青山学院陸上部黎明期の苦悩

大学側と厳しい条件での契約

原晋氏は、2004年、36歳の時に青山学院大学陸上競技部監督へ就任します。

この時の契約条件は、
・大学の嘱託職員
・契約期間3年
・中国電力と同等の年収
というものでした。

要するに3年間で結果を出せなければクビになっても文句は言えない、というものです。

退路を断っての挑戦

地元広島の優良企業中国電力を退職して、住宅ローンも残ったまま青学監督へ就任しました。
3年後にクビになることがあれば、失業した状態で、住宅ローンも負っているという恐ろしい状況になります。

まさにケツをまくって挑戦でした。

ハチャメチャな選手たち

監督就任当初はチーム状態もめちゃくちゃでした。
1年生以外は強化部となる前の一般学生で占められていたので、いわばアスリートではありません。

力がないのは仕方ないにしても、朝練習に遅刻する、練習場所まで走っていくべきところをダラダラ歩く、茶髪にピアス、腰パンというスポーツマンらしからぬ状態

門限破りは日常茶飯事、部屋にパチンコ台を持ち込んだり、酒盛りをしたり、急性アルコール中毒で救急車を呼ぶ騒ぎになったりと、とても競技に集中できる状況ではありませんでした
当然、結果が出るはずもなく。

就任3年目2006年には廃部の危機を招きます。
契約最終年度の焦りもあり、人間性に問題があるが持ちタイムのいい選手をスカウトしてしまいます。
一言でいえば、この選手がヤンキー体質で真面目に取り組まないどころかチームの秩序をことごとく乱します。2006年に見込んでスカウトした選手たちは次々と退部し、箱根予選会は16位に沈みました。

さらにOBが選手を食事に呼んで、原監督に従わないよう仕向けるなど、原降ろしの動きも出ます。

チームは空中分解寸前まで追い込まれました。

原監督の契約も満了を迎えますが、大学側に競技力向上の基礎となる人間教育は進んでいることをプレゼンし、なんとか1年間の契約延長を認めて貰えました。
文字通り首の皮一枚繋がりました。

青山学院陸上部の基礎ができ箱根路へ

選手たちに意識を植え付ける

選手たちの意識を変えることがスタート地点
ここでも、カリスマ社長吉屋氏をモデルにした訴えかけの術がいきます。

目的は「箱根駅伝」出場、そのためにどのような寮生活を送るかなどを明文化して選手に配布、心得を玄関に貼り出すなどして、少しずつ意識改革に取り組みます。

無意識にでも毎日目にすることで意識が変わってきます。

目標管理シートで自主性を引き出す

今や青学名物の「目標管理シート」。

選手と個別面談をしたうえで、個々の目標を設定します。
結果から逆算して、そのための方策を記入、それを選手同士で共有するという取り組みを行っています。

これにより、選手の自主性、責任意識を引き出すアプローチをとっています。
就任2年目2005年からの取り組みのようです。

伝説の主将「檜山雄一郎」がチームを改革

強化部第1期生の檜山雄一郎がキャプテンになった年、彼がチームを改革します。

原監督に、1人部屋から2人部屋にすることを提案したし、選手で寮内の掃除を行うことなどを決め、生活面から見直しを図ります。
キャプテンが率先垂範するので、周りの選手もついてきました。

ベースを立て直したこの年(2007年)、青学はあと一歩で箱根駅伝を逃します。
予選会記録では通過ラインにいたものの、当時あった(長距離以外も含む)インカレポイント制により出場権を逃します。

関東学連選抜として初の「箱根デビュー」

箱根駅伝予選会で次点となったことで、原監督は関東学連選抜チームの監督として箱根駅伝出場を果たします。

の2008年箱根駅伝において、関東学連選抜チームは4位と好成績を残します
集められた選手達で目標設定(3位以内)し、チーム名も考えるなど、自発的なモチベーションを引き出したマネジメントの勝利でもありました。

ちなみにこの時のチーム名は、「J・K・H SMART」。
日本(JAPAN)のJ、関東学連のK、箱根のHに、参加選手の所属校の頭文字を併せた名前でした。
箱根路をスマートに格好よく走ろうという意味も込められているようです。
原監督の影響力がうかがえます。

この成功体験は原監督にとっても貴重な財産となりました。

予選会を突破し箱根路へ

2009年の箱根駅伝
ついに青山学院は出場を果たします。

最下位から2番目の22位となりますが、本選を走ったことでチームのステージは変わり、上昇気流に乗りました。
ここから有望選手も集まるようになり、2010年箱根駅伝では8位とシード権獲得にも成功します。

エース出岐雄大がブレークスルーを牽引

青学の初期のエースと言えば「出岐雄大」。
華の2区で区間賞も取った名選手です。

2010年から2013年まで箱根駅伝を走り、大車輪の活躍。
出雲駅伝初優勝も果たすことになるチームをグイグイ牽引した大エースでした。

出岐雄大が活躍した頃から青学は強いチームとしての認識が広まり、のちの久保田和真選手、神野大地選手を迎える黄金期へ突入していくこととなります。

名門校出身でない出岐の驚異的な成長は、チームにブレークスルーを起こすものでありました。

2015年に悲願の「箱根駅伝初優勝」

2015年箱根駅伝において、ついに青学は箱根駅伝を初制覇。

九学時代から高校No.1であったエース久保田和真選手、山の神こと神野大地選手を擁しての鮮やかな勝利でした。

初めて宙に舞った原晋監督は、文字通り人生大逆転を果たしました。

挫折時に得た経験が強力な武器

個人的な解釈ですが、成功の要因を挙げてみます。

堕落した時代の経験が人間理解につながった

原晋監督は中京大学時代、中国電力時代と競技に集中できなかった時代があります。
また、サラリーマン時代は初期は、心が荒んで自暴自棄になった時期もありました。

こうした、(言葉を選ばずに言えば)堕落、落ちぶれていた時期の心理状態、周りに助けられたこと、そこから這い上がったことが、監督としての武器になったと思います。

真面目に鍛錬を続け実績もあるエリート監督であれば、青学陸上部初期の学生達はみんな逃げ出して、即崩壊であったかも知れません。
ここで、頭ごなしに叱らなかったことも、そうした選手達の気持ちを類似体験として理解していたからでしょう。
覚悟を決めていない人間、劣等感を持った人間がどう感じるか、これを感覚的にでも分かっていたことは、もしかすると強みであったかも知れません。

人間は「理解してくれている」と思うと信頼するようになるものです。
まずここからスタートなのかも知れません。

カリスマ社長のノウハウ

原監督自身も述べていますが、中国電力のカリスマ社長吉屋氏の仕事術が役立ったことは疑う余地がありません。

ロジカルに筋道を立てて、目標に向かっていく。
ビジネスでは知れ渡った(しっかり運営するのは難しい)アプローチが、陸上競技の世界でも通用することを示しました。

むしろ、組織マネジメントの面ではスポーツ界は遅れており、ここにビジネスメソッドを導入した原監督は斬新だったのです。

綺麗に競技歴を全うした監督であればできない、望まずともビジネス経験を得たからこその武器でしたこれからはスポーツの世界でも当たり前になるでしょうね。

魔法をかける アオガク「箱根駅伝」制覇までの4000日

上記は、全て原晋監督の著書「魔法をかける アオガク「箱根駅伝」制覇までの4000日」を読んでまとめたもの、感想等を含んだものです。

アスリートや駅伝ファンのみならず、ビジネスマン、学生にも勉強になる一冊です。
楽しみで読んでもいいし、心が弱っている人、何かに挫折してしまった人にこそ読んで欲しい本です。

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